深夜にクローゼットから更新中
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極悪非道の父の姪。D子のこと。私は絶対に許さない。

ぶろぐ
ちひろ
ちひろ

親に笑顔を見せることをやめた。
「D子に迷惑をかけられていない」と言い切った父を、私は一生許さない。
これは、私が境界線を引くまでの記録です。

両親には敬語で。笑顔なし。答えない。無表情で接する。

父の恫喝。母の罵声。私には一切プライバシーの時間を与えない。
両親は、そうした私に感謝どころか、悪いとも思っていないことが分かった。

母の親戚に迷惑をかけられていることは先日書いた。

さらに言えば、父の親戚にも、私は子どもの時に圧倒的なトラウマを負うようなひどい目に遭わされた。
父の姪、D子だ。

D子は裕福な家庭で育ち、その親でさえ「D子に財布を渡すと空っぽにされる」と言うほどの金遣いの荒い人間だった。
それはD子が子どもの頃からずっとの話だ。
こういう人間が、人に迷惑をかけることしかしないのは、誰の目から見ても明らかであろう。

D子のわがまま放題、迷惑かけ放題は、幼い頃の私にも及んだ。

D子は高校時代にバイク事故を起こした。
人身事故だった。
それを親が謝りまくって、なんとか収めたのだ。
しかし、進学予定だった短大には行けなくなり、地元にもいられなくなった。

人身事故だったため「短大に行く金があるならもっと寄こせ」となることや、
地元が田舎だったため、居づらくなったというのが本当のところだった。

D子は親元を離れ、我が家の近くにやってきた。
病院の事務見習いとか、そういった仕事だったと思う。
その寮に住んで、今度はやりたい放題を始めた。

高校を卒業して、まだ十代のD子。
毎日のように男を連れ込み、酒やタバコをやりまくる。
どんちゃん騒ぎが連日続き、周囲は迷惑千万であった。

とうとう病院側の寮の管理人が音を上げて、実家の両親に泣きついたという次第。

D子、男との真っ最中に実の親突入

夜中、D子が男と交わっている最中に、D子の両親が突入。
D子、真っ裸で両親の前に。

D子の父「D子、服を着なさい」


D子はそのまま両親に連行され、田舎に直行した。

D子の後始末をさせられた小学生

このD子の後始末をやったのが、当時小学生だった私だ。
父は真夜中に母と私を連れて、D子の抜けた後の寮に向かった。
真夜中に子どもを一人で置いておけないという判断だったのだろうが、
幼い私にとっては、いきなり親に叩き起こされて、
D子が放蕩三昧を尽くした汚い部屋に連れて行かれたわけで、たまったものではなかった。

おまけに、寮の管理人はカンカンに怒っていた。
親がいない隙に、私に大きな棒で叩きつけてきたのだ。
逃げようとして逃げられなかった私の背中には、今も傷跡が残っている。

その後、酒とタバコのにおいが染みついた、どろどろの部屋を私が掃除させられた。

D子はそれ以降、一度も私に謝ったことはない。

D子、再び男に会いに田舎から逃走する

D子の乱行はそれにとどまらなかった。
田舎に連れ帰られた後も、男に会いに親の目を盗んで再びやってきたのだ。

当然、また大騒動になる。
D子を捕まえるために親戚が動員された。
私もその一人だった。

D子は捕まった。
D子の男とその家族と話をつけて、帰ることになった。

しかし、D子の悪行はまだ続く。
何としてでも男と連絡を取ろうとした。
D子の母は私に「D子を見ててね」と言い、監視をさせた。

D子は極悪非道のクズだが、D子の母は素晴らしい人間だった。
私は、自分の伯母であるD子の母の言葉に従った。

D子は男に電話をしたかったのに、私がそばにいて邪魔だったのだろう。
私を罵倒し、煙たがり、突き放すために、信じられないような侮蔑の言葉を浴びせた。
股のゆるいクズ女が発する言葉など、それくらいのものだったのかもしれない。

私はすっかり傷つき、泣きながら帰ると、すぐに伯母が察してD子の元へ向かった。
D子は案の定、公衆電話で男に電話を掛けていた。
あの時のD子の勝ち誇ったような顔が忘れられない。
「悪い」とは一切思っていないクズとは、そういうものなのだ。

D子、過去を隠して結婚

その後、D子は何事もなかったかのように結婚した。
結婚相手はD子の過去を知っていたのか、知らなかったのか。
ただ、D子の夫となった人は、私の最大の理解者となった。

D子は、私が知る限り史上最悪のクズだが、その夫は素晴らしい人だった。
なぜこんな人がD子と結婚したのか、それだけは謎だったが、
最終的にはD子に騙されたのだと思う。

この人も結局、D子が引っかかった怪しげな気功療法のせいで、
治療できたはずの病気も治療できず、早世してしまった。

D子とその人の間には子どももいた。
それぞれ大人になって色々あったが、D子の長男はD子そっくりのクズに育った。
金遣いが荒く、人からたかるという手法も同じ。
そして、我が家のことも完全に「金ヅル」と思っている。

これだけ散々迷惑をかけられ、もちろん、これ以外にも山ほど嫌な思いをさせられてきたD子。
そんなD子のことを父は――

父:「D子は一切お前には迷惑をかけていない!」

そう言い切ったのです。
私は一瞬でキレました。

私:「D子には散々迷惑かけられているだろ!」

これが、私が初めて父に言い返した言葉です。
あれだけのことをされてなお、父は「一切迷惑をかけていない」と言い切った。
D子のことさえ、悪いと思っていないのです。

それはつまり、父が自分の介護で私に迷惑をかけているとは、一切思っていないという証明でもありました。

伯母の遺言

そんなD子に我慢して今まで来たのは、ひとえに伯母の存在でした。
D子の母である私の伯母は、「菩薩」のような存在でした。
D子に散々迷惑をかけられ、苦渋の人生だったはずです。
私がD子のことで嫌な思いをしていることも重々承知していました。

その伯母が、生前、それこそ死の直前に私に頭を下げ続けたのです。
伯母は手術も失敗し、お腹も痛む時期でした。
そんな中、病院の白いベッドの上で、私に手をついて謝り続けたのです。

私は根負けして伯母に言いました。

私:「D子のことは許さない。その代わり、D子の子どもたちが困った時には私が助ける。それでいい?」

伯母は安心したように言いました。

伯母:「それでいい。D子のことは許さなくていい」

そこから伯母は、私に遺言を残すようになりました。
自分が死んだ後にしてほしいことを、すべて私に言い残しました。

その時の私は大学に入学したばかりでしたが、伯母にとって、自分の遺言を真剣に聞いてくれるのは私しかいなかったのです。
他の人たちは「縁起でもない」とか「元気を出して」と言って、伯母の話を聞こうとしませんでした。

伯母は何日もかけて、私に遺言を残しました。

私が今までD子のことを我慢してやってこれたのは、伯母の言葉があったからです。

父は感謝などしていなかった

それを、父自身がすべて覆したのです。
伯母は父にとっても親同然の人で、大きな恩があったはずです。
そんな伯母の思いも「我関せず」な父には、もう何も通用しないと思いました。

私はこれ以降、父とも母とも境界線を置くようにしました。

こちらから話しかけない
挨拶もしない
意見は言わない
言っていいのは「はい」「いいえ」「すいません」だけ

でも、こうすると意外にも、両親の私への嫌がらせはかなり減りました。
それでも、「自分たちの面倒を見てくれて当たり前」というスタンスは変わらないようですが…。

また、D子への“きっちりとした制裁”も、合法的に可能です。

D子は、自分の母を死に際に辛い思いをさせ、賢人だった夫も怪しい気功術で死なせています。
さらに、自分の子どもの一人も、一生歩けない病気で亡くなりました。

しかし、D子はこれらの看病や介護を一切していません。
せいぜい法的な手続きをしただけで、その後は男を連れ込んで悪行三昧。
さらに多くの人の恨みを買うこととなりました。

私が地獄に叩き落とさなくても、勝手に落ちていく気もしますがね。

私の人生の方向性も、ようやく定まったように思います。

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